作曲家としての歩み
STORY
-
“流しの歌うたい”から、独学で作曲家へ
少年時代から“歌”に目覚め、終戦後に歌手を目指して上京。流しの歌うたいをしながらレコード会社のオーディションを受ける中で、自らのメロディーメーカーとしての素質に気づき、夢を作曲家へと転換。教則本とギターを手に独学で作曲を身につけ、自作の歌を書き溜める日々を送る。 -
『高校三年生』などのヒットソングを続々と創出
転機が訪れたのは昭和32年。日本マーキュリーレコードから発表した『お月さん今晩わ』(歌:藤島桓夫)がヒット。その評判によりコロムビアレコードから声がかかり、専属作曲家となる。その後は才能を見事に開花させ、小林旭の『アキラのズンドコ節』、舟木一夫の『高校三年生』をはじめ、時代を彩る名曲を次々と生み出していった。 -
“暗い歌は作らない”が信条
遠藤実は作曲をする際、“暗い歌は作らない”という信条があった。「明るい長調の曲には、哀愁を帯びたメロディーを。暗さを感じさせる短調の曲には希望を感じる音を」という独自のメソッドに基づいた、日本語の語感を大切にした変拍子の多いメロディーも特徴のひとつといえる。 -
自身の名を冠した「ミノルフォンレコード」を設立
年に50曲もの作品を発表し、全国に広く“遠藤実メロディー”が浸透していった最中、昭和40年には自らの名前を冠した「ミノルフォンレコード」(現・徳間ジャパンコミュニケーションズ)を設立。山本リンダの『こまっちゃうナ』、三船和子の『他人船』など、新天地でも活発な創作活動を続け、ヒット曲の数々を世に送り出した。 -
フリーの作曲家へ転身
昭和45年、フリーの作曲家に転身。その2年後に森昌子の『せんせい』が大ヒットし、第二の学園ソングブームを巻き起こす。メロディーがひらめいた時、すぐに楽譜に落とし込めるようにと常に鍵盤を傍に置いていたという遠藤。作曲家として大成してからもその創作意欲は留まることがなかった。 -
世界中で愛される『北国の春』
昭和52年、千昌夫の『北国の春』を発表すると、またたくまにミリオンセラーに。さらに中国語やタイ語などアジア圏で次々とカバーされ、国際的に愛される作品となった。そうした功績により、日本レコード大賞特別賞や日本作曲大賞国際親善音楽賞など、さまざまな名誉を授与された。 -
歌の力を信じ続けた、76年の生涯
生涯に5000曲超の作品を放ち、後進の音楽家や著作権の保護、さまざまな場所でのチャリティーコンサートなど、各方面で音楽の振興に注力した。平成6年には「財団法人遠藤実歌謡音楽振興財団」を設立し、「遠藤実記念館」をオープン。その輝かしい功績は今なお語り、歌い継がれている。